Plenus 日本の心研究所

Plenus 日本の心研究所 Roots Story

〜明治時代から現在へ〜

従京橋新橋迄煉瓦石造商家之図 一曜斉国輝著 国立国会図書館蔵  明治初期の京橋新橋の風景。

世界の中でも確固たる存在感と個性を示す日本の食文化。古くは大陸からの食文化を取り込みながら、日本人は四季折々の自然の恵みを繊細かつ独特の感性で磨き上げ、千年以上の時間をかけて、美しい日本の食文化を育んできました。そして、鎖国の中で完成された独自文化に、「西洋」という異文化が流入してきた明治時代。
「Plenus日本の心研究所」は、近代化への転換点であり、食文化にも多大な影響を与えたこの時代に誕生した西洋料理店『彌生軒』にルーツがあります。

「彌生軒」の看板

1886年(明治19年)5月、塩井民次郎(当団体の代表理事、塩井辰男の曾祖父)は、南茅場町の日枝神社境内に、西洋料理店『彌生軒』を開業しました。当時の日本は国を挙げて近代化にすすむ激動の時代。西洋の制度、産業、技術が相次いで導入されるなか、明治政府は日本が欧米列強と対等に渡り合うための必要な外交施策のひとつとして、西洋料理の浸透につとめました。宮中でもフランス料理が正式な料理として採用されたことをきっかけに、西洋料理は新たな食事様式として、日本の食文化の中に取り込まれていきました。

このとき大きな役割を担ったのが、迎賓館の役割を担ったホテルや、文化サロンでもあった西洋料理店です。西洋料理は、まず上流階級層を中心に広がっていきました。

新撰東京名所圖會
明治34年当時の摂社山王日枝神社の様子

『彌生軒』の表記がみられます

明治23年 東京買物独案内商人名家
上原東一郎著 国立国会図書館蔵

明治時代に入って社交界、文化サロンの場としていくつかの西洋料理店が登場。
「東京買物独案内商人名家」は当時のガイドブックのようなもので『彌生軒』の名前も見てとれます。

 

当時、『彌生軒』のお客様には政府高官なども多く、陸軍大将大山巌、勝海舟、警視総監樺山資紀らの名が伝わっています。『彌生軒』は様々な文献に記されており、西洋料理店としての商業的な成功だけでなく、文化的にも大きな役割を担っていたようです。

また南茅場町は“金融証券の街”として、近代化の中心となった兜町に隣り合う場所。
『彌生軒』は、政財界や軍関係者など多くの上流階級層が集う社交場、文化サロンとして、食の分野から近代化の発展に貢献していきました。

明治時代後半、食の西洋化は一般にも大きく広がり、肉食の奨励や西洋野菜の浸透、新たな調味料や画期的な料理方法など、日本の食文化に様々な変化をもたらしました。
現在の私たちが好む日常食は、古来の伝統的な日本食と、独自の西洋化したスタイルが混在しています。この食に対する柔軟性と、異文化を自国文化に変換して醸成する感性が日本の食事スタイルであり、現在、広く海外に受け入れられる食文化の素地を作ったと言えるのではないでしょうか。

一般社団法人Plenus日本の心研究所は、「食事とともに新たな価値を創造する場」であった西洋料理店『彌生軒』の精神性を受け継ぎ、日本の食文化を総合文化として研究、交流する実験場としての活動を始めました。旺盛に西洋文化を取り込み、新しい価値を作り出した『彌生軒』の誕生から約130年、私たちは日本の食文化の価値を世界に伝える存在になれるよう、歩を進めてまいります。